昨年のうちに自宅に届いた夜会工場のDVDをやっと見ることができた。ライブでも見ていたのだけど、現場では興奮してるから、何かを考える暇はなかった。
発売されてから映像で改めて見てみると、やっぱり色々と頭が回って考えることが多い。
前作の「橋の下のアルカディア」でも感じたところだが、近作は中島みゆきが歌うシーンが、少しずつ少しずつ、少なくなっている気がする。
特に本作では、歌の主な部分、特に盛り上がるアップテンポな曲を担うのは、中村中や、宮下文一、石田匠などの歌手だ。
ちゃんと時間を計ったわけではないので感覚でしかないのだが、中島みゆきが歌っている時間自体は全体の半分にも満たないのではないだろうか。
中島みゆきがずっと舞台で歌い、暴れ、表現してきたシアターコクーン時代の夜会とはずいぶん趣が違っているように思う。
それでも不思議なのは、中島みゆきが出ていない時間がどれだけ長くても、作品全体を通して中島みゆきの世界観が一切崩れていないことである。
それよりも、公演の中で、中島みゆきらしさを一番ストレートに感じたのが、中村中が歌っていた「Maybe」だったりするから面白い。
中村中が歌っていたとしてもそれは中村中のコンサートにはなっておらず、中島みゆきの夜会なんだなということがわかる空間がずっと維持されている。中島みゆきの歌を歌っているのだから当たり前じゃないかと思うかもしれないが、これはなかなか難しい。
テレビでカバーしている歌手の映像を見ているとわかるように、人の歌を歌っていたとしてもどうしても自分の雰囲気や色が出てしまうからだ。
今回の夜会工場を見て、僕は中島みゆきが、自分がいなくなったとしても中島みゆきの世界観を維持し続けることができるかどうかを試しているのではないかと思った。
自分が用意した「夜会」という枠の中で、自分以外の誰かが自分の世界観を作ってくれるのを少しずつ試しているような気すらしてくる。
もしそうだとすると、その試みは今作である程度成功しているように思える。(中島みゆきの歌声をもっと聞きたいファンにとっては寂しいことではあるのだが…。)
(1部の界隈だけで)使い古されている言葉を使えば、「中島みゆきは概念になった」と言うことなのだろうか。
元ネタを思い起こせば、このワードは縁起でもないので、この辺でやめておこうかな。