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落語の楽しみ方を強要する評論家は滅びてほしい

ときどき寄席に行くと、時々自称落語好きのおじさんが若者の初心者にマウントを取って、落語とは何かを語っている地獄のような光景を目の当たりにすることがある 。

 

この記事を読んで、その時と同じようなモヤモヤとした嫌な気持ちになった。

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この記事の中では、「落語の中でも特に『中村仲蔵』が好き。いろいろな人の中村仲蔵が聞きたい」という小泉進次郎氏に対して、「中村仲蔵は人情噺なので、これを好きということはこいつは落語の本質がわかってない」と演芸評論家の吉川潮氏がコメントしている。

 

なんで演芸評論家というのは、どいつもこいつもこんなんばっかりなんだ!

 

志の輔師匠の中村仲蔵を見に行ったら感動した。だから他の人の中村仲蔵も聞いてみたい。

これは落語ファンとしては極めて真っ当な心理だろう。

 

中村仲蔵が落語のストーリーとして王道かどうかはこの場合そんなに重要だろうか。

 

今落語を楽しんでいる人のうちの大半は、そうやってどんどん数珠つなぎのように新しい落語家、新しい話を知っていき、楽しめる演目の幅や贔屓の噺家さんを増やしていってるのではないだろうか。

 

記事中で吉川氏が語っている「忠臣蔵なら、討ち入りに行かずに逃げちゃったほうの侍を主人公にするのが落語です」というのはそりゃそうだ。落語がどんなものか、講談との違いは何かを一言で表現した談志師匠のわかりやすい名解説だと思う。

しかしそれをこの文脈で、中村仲蔵が好きだという落語ファンに対してぶつけるのは、ただのひけらかしである。

評論家なら、知識を知っているだけでなく、適切な文脈で使わなければ適切な評論はできないことぐらいはわかってほしい。

 

落語に全く興味がない人はそもそもこの記事を読まないと思うが、どんなものかと思って読んだ人とっては、落語というのはとても怖い世界だと思うだろう。

落語を観てある演目に感動し、他の落語家の同じ話を聞きたいと言っただけで、知らないじいさんに絡まれて「本質が分かっていない」とか言われるのだ。こんな恐怖はない。

 

この吉川氏に限らず、落語が好きだと発信する若者に対して上から目線で「俺の落語論」をぶつけてくるお年寄りの評論家や落語好きは非常に多い。

この手の人たちにとっては、落語というのはいつまでも手の届かない伝統芸能のままあるべきで、若い奴らがちょっとつまみ食いをするような ことは許せないと思ってるようにすら感じる。

少なくとも、この記事での小泉氏への吉川氏の語り方は、そう思われても仕方がないものだ。

 

まあ、この記事は小泉氏を批判することがそもそもの目的のようなので、ネガティブなコメントを寄せてくれそうということで吉川氏が選ばれたのだろう。そういう意味では、この人は立派に務めを果たしたともいえる。

 

前の記事でも書いたとおり、僕が落語議連に対してはあんまりポジティブな感情を持っているわけではないのだが 、小泉氏が自分の感性で面白いと思った落語を楽しむ権利は誰にも犯されるべきものではないと思う。

 

これだけいろいろ書いてみたが、政治家としての小泉進次郎氏を持ち上げるつもりも貶めるつもりもないことは最後に言っておきたい。