一般に公正妥当と認められたいBLOG

すあま先生が興味があることを勝手に書き散らしてしていくブログ

堀井憲一郎『落語論』で、自分の嫉妬に気づかされる

KindlePaperWhiteを新調してから、また本を読むペースが、少しずつ復活してきました。
動きがさくさくするのはやはりいいです。

最近読んだのは、フリーライター堀井憲一郎さんの落語論。

落語論 (講談社現代新書)
堀井憲一郎
講談社
売り上げランキング: 461,442


「落語を聞きたいことがないけど知識を得たい」という人には向かないです。
そういう人は、本なんか読まずにとにかく落語を聴きに行ってください。

落語が好きな人がホール落語や寄席に通う中で、
ふつふつと疑問に思っていたことを言葉にしてくれた、という感じの本です。

目次はこんな感じ

第1部 本質論
第2部 技術論
第3部 観客論


特に特徴的なのは、3部の観客論のところ。

たった一人で、何も使わずに行われている芸なので、嫉妬が芽生えやすい。一人で喋る、というところがポイントである。歌手も多くの場合は一人芸であるが、自分も歌がうまいと思っていないと、嫉妬を抱かない。抱けない。そこにはわかりやすいラインがある。話芸の場合、多くの人は技術で競ったこともなく、その細かい技術もわからず、ただ喋るだけで多くの人を巻き込んでいくというその不思議な現象を目の当たりにして、驚くばかりである。そこで、「何かを抱えてる人」は取って代わりたいと無意識におもう。それが嫉妬だ。その嫉妬が落語について語る原動力になる。(略)それは、なぜ、自分が舞台の上にいないのか、を説明するためである。


なんで落語について語りたくなるのか、
その一方で、他で落語について語っている人をみるとどうして滑稽に見えるのか、
これで少し見えてきたような気がします。

ぼくも、落語を聞きながら、心のどこかでは噺家さんに嫉妬していたのでしょう。
「何かを抱えている人」の「何か」がぼくの場合は何なのか、
もう少し向き合って考えてみたいと思います。
それは落語をこれから聴き続ける中で見つけられるものなのでしょうかね。