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宮崎あおいのearth music & ecologyのCMについて その2

先日書いたアースのCM(こう書くと蚊取り線香みたいだけど)の件で、下記の記事には、普段過疎状態の当ブログにしてはたくさんのアクセスがありました。

宮崎あおいに中島みゆき「Nobody is Right」を歌わせる意味は

 
それだけ、あのCMをみて、プラスにせよマイナスにせよ何かが心に引っかかった人が多かったのでしょう。
 
そして今日、このCMのクリエーティブディレクターの権八成裕さんへのインタビュー記事が
配信されました。

宮﨑あおい、中島みゆきを歌う CMに込めた平和への思い

 
記事後半の一段落のみ抜粋します。
法案のことについて言えば、いろんな考え方があっていいし、法案に賛成の人も反対の人も「戦争反対」や「平和」を訴えていた。ただ残念ながら、今回の議論の進め方はやっぱりおかしいと思う。どうして、多くの学者や専門家からの「憲法違反」という指摘を無視し、大多数の国民の不安や疑念に真摯(しんし)に向き合いもせず、自分たちだけが正しくて、それ以外の声は聞く必要がないというような態度で暴走するのか。そういう審議の進め方こそ、中島みゆきさんがこの歌の中で喝破しているもののように見えます。
 
というわけで、安保法案反対の立場から、この「Nobody is Right」が採用されたのは確定のようです。
記事の前半では、この歌がもつ普遍的なメッセージについて、権八さんは感想を述べられており、その内容はかなり納得のできるものです。
そこまでわかっていながら、この問題を安保法制というかなりミクロな論点にわざと当てはめたのは確信犯的だと言わざるを得ません。
 
抽象的な歌は、具体的な問題に当てはめようとすればするほど、
作者の持つ意図から外れる可能性が高くなります。
中島みゆきさんがこの件について具体的なコメントを公表していない以上、
この歌にミクロな個人的見解を乗せて発信することは、
それこそ、歌の持つ力を道具にしているのではいないでしょうか。
 
「Nobody is Right」にある「正しさは 道具じゃない」という素晴らしい歌詞が、
勝手な味付けをされずに多くの人に浸みわたっていくことを、願ってやみません。

スーツよりジャケパンのほうがどう考えても優れている件

冬の間はスーツにネクタイ着用という会社でも、夏になるとクールビズで服装に関する会社の雰囲気が少し緩くなる・・・というところは多いと思います。
とはいっても、クールビズ期間中でもジャケットと着ないといけないシーンは少なからずあるわけでして、私は今年、そのような場面では、ジャケットとパンツで別々のものを着る、いわゆるジャケパンのスタイル(ジャケスラともいう?)を試してみました。
これには、大変多くの利点がありますので、
やったことない方の参考になるように、メリットをちょっと整理して書いてみました。

どんな格好をジャケパンというかは、このようなサイトに嫌というほど例がありますので、
参考にしたいところです。

※以下、ズボンとパンツとスラックスをぐちゃぐちゃに書いておりますが、要はズボンのことがいいたいのです。

ノーネクタイでもきれいに着られる

クールビズの開始当初に多い「スーツからネクタイを外しただけの格好」ですが、
これに対して、違和感を覚える人は意外と多いようです。
私は人によってはかっこいいとすら思えるのですが、器量が並以下の人がこの格好をすると、
とたんに何か足りない間抜けな格好に見えてしまうときがあります。
ジャケットとスラックスが別々であれば、不思議なことにネクタイをしていてもしていなくても、スーツの時ほどの違和感はなくなります。

上下のサイズをそろえなくて良い


私は運動もしていないくせにお尻と太ももがやたらとがっちりしています。
一方では上半身がまったく貧相なので、
いつも既製品のスーツを買うと、お尻に合わせてスーツを選ぶため上着が少し大きめのものをやむなく着ることになってしまいます。
オーダーにすればいいじゃんという説もあるのですが、オーダーのスーツでそれなりのクオリティの物はやはり高く、ローテーション用に何着もすぐに揃えられるものではありません。

ジャケパンであれば、上下を別に買うわけで、当然サイズの問題は発生しません。

ズボンだけ洗える、捨てられる、クリーニングに出せる

スーツの場合は、2パンツスーツでもない限り、ズボンの寿命がすなわちスーツの寿命です。
ズボンの方が消耗が早いため、ズボンが履けなくなってしまったら、同時に上着も他には使えないので、お蔵入りになります。
ジャケパンであれば、これももちろん関係なく、ジャケットはジャケットとしての寿命が尽きるまで長く着られます。長期的に見て、経済的といえるでしょう。

また、気分的にズボンは頻繁に洗いたくなりますが、スーツであればズボンの洗濯中・クリーニング中はその上着も着ていくことができません。
でもジャケパンなら関係なく、別のズボンと合わせて着ることができます。そのためいつでもズボンを洗濯でき、きれいな状態で着ることができます。

ローテーションを水増しできる

スーツを2着買っても、2日おきに2通りの組み合わせを交互に着ることしかできません。
ジャケパンスタイルを前提にジャケットとスラックスを2つずつ買えば、2×2で4通りの組み合わせで出勤することができます。
「あの人いつも同じスーツ着てるね」と言われずにすみます。

このように、ジャケパンはいいことずくめです。
ぜひ始めてみてください。
もちろん、マナーや礼儀的にスーツじゃなきゃいけないときだってありますので、
スーツは維持しつつ、内勤で外出しない日などからはじめてみるのがいいかと思います。

私の職場のように、明確な服装規定がないところでは、
どこまでやっていいのか悩むところですが、先輩にやってらっしゃる方が何人かいたので、
私も徐々にジャケパンに移行してきています。

今では、着なくなったスーツの上着をジャケットとして下取りにだして、引き替えにもらった割引券を使って新しいジャケットを買うなんていうセコすぎるマネまでできるようになりました。

特に若い人はどんどん挑戦して、私が後ろめたくなくジャケパンで出勤できるように、世代的なムーブメントを引き起こしていきましょう!応援してください!


宮崎あおいに中島みゆき「Nobody is Right」を歌わせる意味は

数日前から、earth music&ecologyのCMで、
宮崎あおいさん他大勢の女性が合唱するバージョンが放映されています。

聞き覚えあるメロディーラインだと思っていたら、
使用されていた曲は、中島みゆきさんの「Nobody is Right」でした。
クレジット表記も全くされていなかったので、知らない人はこの曲を聴いても何の曲かは確実にわからないでしょう。



2007年発売のアルバム「I Love You, 答えてくれ」に収録されている一曲で、ツアーで一度歌われている以外は、特に他のアルバムにも顔をだしていない、マニアックと言えばマニアックな曲です。


この「I Love You, 答えてくれ」というアルバムは、中島みゆきが、自身にしてはかなりめずらしく、考えていることやメッセージを前面に押し出していて、ゴリゴリのロックで編曲されている曲が中心になっているという特徴があります。
その中でも、「Nobody is Right」はメッセージ性がことさら高くて、発表当時からファンの間で歌詞の深読み合戦のようなものが行われていた記憶があります。

15秒バージョンで切り取られていたのは次の部分です。

争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか


このCMでは、歌を歌いながら、宮崎あおいは涙を流しています。

CMが放映された時期、使われた歌詞の内容から見ても、
このCMが先日成立した安保関連法をかなり色濃く意識したものであるといえると思います。
それも、きわめて反対に近い立場からです。
そうでなければ、企業がわざわざ莫大な費用をテレビ曲に支払って、自社のイメージアップにもつながりにくいシリアスな楽曲をただ歌うだけのCMを流す理由が見つかりません。
具体的な商品やブランドの紹介はせず、肝心のearth music&ecologyの名前は最後にちらっと出るだけだし。(このブランドのほかのCMもそうなのですが)

ただし、「Nobody is Right」の歌詞を全部読んでみればわかるのですが、
この歌は、単なる反戦歌というよりは、
個人個人が自分なりの正しさを他人に強要して、時にはそれがもとで大なり小なりの争いになっていくことをじっと見つめている、もっと普遍的なメッセージを持った歌だと個人的には思っています。

なので、個人的にはですが、安保法反対の反戦歌として使っているのであれば、
このやり方は曲をお手軽に解釈しすぎだと思います。少なくとも、作者の意に沿ったものではあまりないんじゃないですかね。
逆に、何か別の理由があって、この曲を歌わせているのであれば、その内幕をもっと知りたいです。
(広告料以上のベネフィットがあると踏んでいるのでしょうから)

おまけ:
この曲がライブ歌われたのは、2010年のコンサートですが、
私が聴いていた回では、中島みゆきは「正しさゆえの争いを説く」を「戦争を説く」と歌っていました。
これが歌詞間違いなのか、何らかの意図があったのかは、本人のみぞ知るところです。

9/22追記:
この曲ですが、一音に言葉を何語も詰め込んでいるので、
そもそも合唱に向いていないように思います。
よほどきれいに合唱しないと、何を言っているのかわからない。
冷静になってCMを聴いてみると、中心になって歌っている宮崎あおいの滑舌が
あまりよくないこともあってか、いくつか聞き取りにくい箇所があります。
CMとしては、企画が先行していてそのまま勢いでやっちゃったのかなという印象を持ちました。

10/1追記:
CMの制作側の見解が出たので、追加記事を書きました。

宮崎あおいのearth music & ecologyのCMについて その2

http://tmtthinks.blogspot.jp/2015/10/earth-musicecologycm.html

堀井憲一郎『落語論』で、自分の嫉妬に気づかされる

KindlePaperWhiteを新調してから、また本を読むペースが、少しずつ復活してきました。
動きがさくさくするのはやはりいいです。

最近読んだのは、フリーライター堀井憲一郎さんの落語論。

落語論 (講談社現代新書)
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「落語を聞きたいことがないけど知識を得たい」という人には向かないです。
そういう人は、本なんか読まずにとにかく落語を聴きに行ってください。

落語が好きな人がホール落語や寄席に通う中で、
ふつふつと疑問に思っていたことを言葉にしてくれた、という感じの本です。

目次はこんな感じ

第1部 本質論
第2部 技術論
第3部 観客論


特に特徴的なのは、3部の観客論のところ。

たった一人で、何も使わずに行われている芸なので、嫉妬が芽生えやすい。一人で喋る、というところがポイントである。歌手も多くの場合は一人芸であるが、自分も歌がうまいと思っていないと、嫉妬を抱かない。抱けない。そこにはわかりやすいラインがある。話芸の場合、多くの人は技術で競ったこともなく、その細かい技術もわからず、ただ喋るだけで多くの人を巻き込んでいくというその不思議な現象を目の当たりにして、驚くばかりである。そこで、「何かを抱えてる人」は取って代わりたいと無意識におもう。それが嫉妬だ。その嫉妬が落語について語る原動力になる。(略)それは、なぜ、自分が舞台の上にいないのか、を説明するためである。


なんで落語について語りたくなるのか、
その一方で、他で落語について語っている人をみるとどうして滑稽に見えるのか、
これで少し見えてきたような気がします。

ぼくも、落語を聞きながら、心のどこかでは噺家さんに嫉妬していたのでしょう。
「何かを抱えている人」の「何か」がぼくの場合は何なのか、
もう少し向き合って考えてみたいと思います。
それは落語をこれから聴き続ける中で見つけられるものなのでしょうかね。

メールで「ショートノーティス」は使いたくないという話

職場のメールで、数日中までの資料の作成や確認をメールで依頼するとき、
ショートノーティスにて大変申し訳ありませんが」という表現を頻繁に目にします。

これ、個人的には結構違和感があるのですが、若い人からベテランまで、使っている人は多いです。

そもそも、ショートノーティスって言葉がわかりにくくないですか。
「ショート」はなんとなくわかるので、機嫌が短いという意味なんだろうなということは推測できます。
ところがカタカナにすることによって、申し訳なさそうな感じが全く伝わってこない。
むしろ、謝りたくないがためにカタカナにして煙に巻いているような印象さえ受けてしまいます。

普通に「締め切りまでの機嫌が短くなってしまい大変申し訳ございませんが~」
と日本語で書いたほうが、こちらが申し訳なく思っていることも伝わるし、
無理を承知でやむなくお願いしている旨も伝わって引き受けてくれる可能性も上がると思うのです。

かつて「ショートノーティス」を使っている後輩に、上記のようなことを言ってみたのですが、
「そんなこと考えるのあなただけだと思いますよ。ぼくは使い続けます(意訳)」
と言われて撃沈しました。

理解してくれるひとがいなくても、日本語で表現できることはできるだけ日本語で表現したいな、と思った今日このごろでした。

紅白歌合戦で中島みゆきに興味を持ったら買うべきCD/DVD

あけましておめでとうございます。
落語関連の更新ばかりしておりまして、途中中島みゆきさんの夜会や新しいCDのラッシュやら色々あったのですが、レビューもできないでおりました。

ところで、紅白歌合戦での中島みゆきさんの「麦の唄」の歌唱はすばらしかったですね。
長くファンをやっていてよかったと思いました。
遅すぎて機を逸してる感がありますが、こんな企画をやってみます。
ぜひ、参考にしてください。


紅白で歌った「麦の唄」が聴きたい!な人


シングル版が出ています。お手軽でとにかく安いです。
カップリングは、ももクロに提供した「泣いてもいいんだよ」のセルフカバーバージョンが入っています。



また、こないだ出た下記のアルバムにも麦の唄は収録されています。
これは同時に収録されている楽曲群もすばらしく、アルバムとしての完成度が非常に高いです。
夜会で演奏された曲もあったりするので、最近の中島みゆきの制作活動の雰囲気を知りたい場合はベストチョイスだと思われます。

中島みゆきの代表的な曲が聴きたい!な人

ベスト・アルバムを選びましょう。
現在の中島みゆきの全曲からよりすぐったベストアルバム、というのは残念ながらまだ出ておりません。(世代ごとのベストみたいな出されかたをするため。)
下記が3つが初めての方が聴くベストとしては売れているようです。
中身がかなりかぶっていますが、微妙に収録曲がちがうので、聴きたい曲、名前を知っている曲がどれだけあるかで決めるといいと思います。
個人的には、「わかれうた」「悪女」などの昔のヒットも含めている「大吟醸」がいいと思います。
2000年代のヒット曲は収録されていませんが。

無駄に3アルバムの収録曲を並べてみましたので、ご参考になればと。





選ぶのがめんどくさいという方は、少しお高くつきますが、
コンサートのDVDを買うという手もあります。
2007年のコンサートでは、ベストに入るような曲がとにかく全部歌われてますので、
お金に余裕があればおすすめです。Blu-rayとDVD両方あります。


紅白の出演を機に、いろんな人に魅力が広まればいいな、と思っている次第です。
ぜひ、聴いてみてくださいね。

インタビューのみ必読『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(著:広瀬和生)

八月上席の池袋演芸場のトリは毎年恒例、柳家小三治師匠です。
聴き終わった後、「小三治本」が発売されているのを思い出して、購入して帰りました。
この本の校了直前にたまたま人間国宝になったということで、
人間国宝認定に合わせた出版ではないようです。(そりゃさすがに時間的に無理だ)



なぜ「小三治」の落語は面白いのか?
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この落語家を聴け! (集英社文庫)
著者の広瀬和生さんは、当ブログでも前に紹介した「この落語家を聴け!」を書いた方で、ほぼ毎日落語を鑑賞しており、現代の生で聴ける面白い噺家をよく知っている方です。私も二度ほど著作にサインをいただいたことがあるので、まあ外れということはないだろうと思い、購入しました。

目次は、これだけ。

第一章 小三治 ロングインタビュー
第二章 ここが好き! 小三治演目九十席


第一章が、本全体の1/3ぐらい。残りの2/3が第二章です。

    結論から言いますと、第一章のインタビューがめちゃくちゃ面白い。
これだけでもファンは買う価値があると思います。
ファンだけでなく、小三治師匠の落語を聴いたことが1回でもあるかたは、何かしら楽しめる要素があります。

このインタビューのいちばんの面白いところは、小三治師匠が落語を演じるに当たっての「苦悩」を比較的率直に語っている点だと思います。
インタビュアーの広瀬さんがかなりの長いあいだ小三治師匠を追っかけていらっしゃるので、
「あの会ではこんなことを言ってましたね」「あの独演会では1席しかやりませんでしたね」というような質問をどんどん投げかけ、小三治師匠も「あなたよく見てるね。そのときは実はこんなことを考えていて~」というような形で、種明かしのようにインタビューが進んでいきます。
おっかけている人からすれば、あの時のあの噺にはこんな考えがあったのか!とかなり楽しむことができるでしょう。

例えば小三治師匠は、去年の10月に鈴本演芸場でトリをとったとき、出番があった7回中4回「野ざらし」をかけました。
その時期の某掲示板などには「齢をとって演目が少なくなっていく」などとひどい書き込みがあるのを私も見ましたが、
このインタビューで、その背景には簡単に演じると簡単にウケてしまう「野ざらし」を、もっと深いものにできないかという師匠の模索と葛藤があったんだということがわかります。


第二章の部分は、小三治師匠の持ちネタを、著者の広瀬氏がオススメのCD・DVD商品とともに解説しているだけなので、まぁ、一章の濃厚さに比べればおまけみたいなものです。
90席紹介されていますが、小三治師匠は自ら「今の持ちネタは30~40」とテレビの番組で語っていたことがありました。
そのため、読んでいると、「この半分以上はもう生で聴けないのか」という、ちょっとした悔しさを感じてしまいます。
それでも大丈夫な人はこのパートを読むといいし、紹介されている過去の音声や映像を買うのもいいと思います。

30~40の持ちネタが、現在においても試行錯誤の末に進化し続けているので、
生の師匠の落語が今でも寄席で聴けることの喜びは、やっぱり大きいのです。